愛媛県伊方町観光サイト さだみさきナビ

四国最西端、
日本一細長い半島「佐田岬半島」からの
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天空の石垣? 名取の石垣

宇和海を一望できる斜面の標高約100mから150mの間に名取地区はあります。元和元年(1615年)に宇和島藩主 伊達秀宗が、奥州先代から入府した際に奥州名取郷より軍夫として連れてきた人々を、宇和海の見張り役として当地に定住させたのが、名取の始まりとされています。
名取の石垣の特徴は、大変変化に富んでいることで、石の種類も青石⋅石灰石などさまざまです。また、不安定な地盤のせいか、積み方も巧みに工夫されており、その種類も多く、野良積み⋅平積み⋅矢羽根積みなどの工法が用いられています。その結果として、石垣は豊かな表情を見せ、独特の文化を造りあげています。
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まるで城壁!超巨大! 野坂の石垣

野坂の石垣は、豊かな海と山に囲まれ、穏やかな時間が流れる正野地区の港町に堂々と佇む石垣です。高さ4m、長さ140mを誇る大規模な石垣は、大小さまざまな石を使用してち密に造られており、城壁を思わせる造りとなっています。石垣には、青石という水分を含むと緑色を増す特徴を持った石が使用されているので、乾いた状態の石垣と雨が降り濡れた状態の石垣とでは趣が変わります。
また、野坂の石垣は「未来へ残したい漁業漁村の歴史文化財百選」に選ばれており、今もなお大切に管理されています。

戦争を語る遺産 豊予要塞

戦争に備え、瀬戸内海を守るために設けられた要塞です。大日本帝国陸軍によって建設され、豊後水道を通る敵艦を撃沈する役目を負っていました。佐田岬には、第1~第4砲台が設置されており、大正15年(1926年)に第1砲台、昭和2年(1927年)に第2砲台、昭和5年(1930年)に第3 第4砲台が竣工されました。
※見学されるのは自由ですが、舗装されていない場所もありますので、安全には十分注意され、自己責任でお願いします。
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市右衛門の墓(町指定記念物)

江戸時代後期に伊方町の伊方地区で起きた一揆(伊方騒動)の首謀者、市右衛門の墓碑です。この一揆は、文政13年(1830年)春、当時伊方浦庄屋 辻屋辻長次兵衛と、その職を譲られた息子の喜平太の浦人に対する酷使や年貢の王領に反発して勃発されました。首謀者の市右衛門は、天保2年(1831年)宇和島で斬罪となったが、遺体は故郷に戻され義民として多くの浦人に慕われ、その墓碑が法通寺の境内に建てられています。
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一里塚(町指定記念物)

一里塚とは、大きな道路の側に1里(約4km)ごとに旅行者の目印として設置した塚(土盛り)です。塚の側には植樹されることもありました。日本では江戸時代、徳川幕府が制度として完成させました。
当地区にある一里塚も、宇和島藩によって築かれたものであり、二代藩主 伊達宗利 の命によって延宝元年(1673年)に黒松が植えられ、「一里松」と呼ばれるようになりました。1878年に枯死したことから、一里塚と改名されました。本町では、伊方浦川永田、九町浦九町三宝寺、二見浦加周の石神(佐市峠)にあったとされていますが、このうち川永田、九町三宝寺の二ヵ所を史跡に指定しています。
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旧正野谷桟橋(登録有形文化財)

佐田岬半島に残る豊予要塞の軍事遺跡のひとつで、佐田岬灯台へ向かう県道から歩道を約50m下ると、漁業用とは異なった雰囲気の桟橋が目に入ります。長さ約50m、幅約5mのコンクリートと一部鉄製の桟橋は、第2砲台建設の資材を陸揚げするために造られ、計24本の円柱に支えられています。半島の先端部だけあって風による波も強く、崩壊を免れるための様々な工夫も凝らされています。風が強い日には近づけないので、訪れるのは春や秋がおすすめです。
※見学は自由ですが、自己責任の範囲で散策をお願いします。
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旧平磯水底線陸揚室(登録有形文化財)

平磯地区と釜木地区のほぼ中間から急斜面を下った小浜(通称:ゴンドウ)に花崗岩で石積みされた台地上にコンクリート造りの平屋の建物があります。この建物は対岸(九州)から海底ケーブルを陸揚げする施設で昭和2年(1927年)3月、佐賀関町志生木と平磯間 44.2km をつなぐために設置されました。当時電話による通信は有線以外に方法はなく、海を隔てた対岸(九州・本州)の通信はこの海底ケーブルの普及によって急速に発達しました。小さな建物ですが入口のアーチや窓枠のタイル張り、スタッコ壁などの当時のモダニズム(現代風)が巧みに表現されています。
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旧三崎焼窯精錬所(登録有形文化財)

旧三崎精錬所は創業不明ですが、明治30年以前に童子鼻に設置されていたようで、精錬方法は遺構を見る限り、江戸時代から行われてきた採鉱、砕鉱、焼鉱、荒吹という流れだったように思われます。当時、20、30人が働いていたそうですが、精錬による煙害や銅価格の暴落、さらに不景気により明治の末に操業を停止しました。
現在は、レンガ煙突3本と数基の焼窯跡が残り、また精錬過程ででたからみが周辺や海岸に散在しています。

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得能主膳ゆかりの地(町指定記念物)

得能主膳は、周桑郡徳田村(現:西条市)出身の出身で、もとは河野氏系の浪人であったと伝えられる人物で、のちに宇和郡領主 西園寺公広 の十五将の一人、八幡浜萩森城主宇都宮房綱 の豪族として、九町 長崎城を拠点に、石高二四一石四斗二升を領として、中世期末期の九町浦、二見浦一帯を治めました。

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中尾城跡(町指定記念物)

旧町役場の裏手、森山と呼ばれるところが中尾城の跡と言われ、現在では持珠院があります。城主は、井上善兵衛尉重房 でした。元亀、天正年間(1570~1592年)のころ、三机浦へ海賊が再三押し寄せ、八幡浜 萩森殿は重房を三机浦へ派遣し、海の守りにあたらせたのでした。重房は、長養寺を創建し、土地を開き町を作るなどして民政に努力したため、人口は急激に増加し商業も栄え、城下町ができたといわれています。

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長崎城跡(町指定記念物)

九町地区の須賀の海岸近くに、かつてあった九町池の上方に城跡があります。長崎山の尾根をうまく利用して、城跡の北側を土塁で固め、南側に空堀と思われる跡が認められています。近辺の地名や小字(ほのぎ)にも、台、城戸、城の首、音津、屯場、乗り越、烽火場、城道 など、城跡を思わせる名称が多く残っています。城主は、得能主膳通明で、名は代々受け継がれたものと言われております。

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丸岡城「城の台」(町指定記念物)

中浦字丸岡、法通寺の上方にある小高い丘の一角に、「城の台」と呼ばれるところがあります。戦国時代、有馬右兵衛之佐 藤原義通 城主とする、中世城郭 丸山城 の跡地です。周辺には、堀の上、船堀、空堀、城ヶ鼻 などの、城にまつわる地名が多く残っています。

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住吉神社(小島の高岩)

小島の住吉神社沖合十数mのところに陸続きながら高さ8m、直径10mほどの岩が2つある。美しい景観ゆえ、「小島の高岩と住吉神社」と呼ばれています。

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長養寺

長養寺は、元治元年(1864年)、第1回長州遠征討伐の時、徳山・長州・岩国・宇和島の各藩の使者との会見場所として使用されました。歴代宇和島藩主が参勤交代で三机御仮家に休息する折には、長養寺へ立ち寄り、また長養寺参禅詩歌の献額も残されています。

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傳宗寺 本堂(町指定有形文化財)

傳宗寺は、三崎地区の高台にあある臨済宗妙心寺派の寺院です。本堂は間口9間(16.4m) 奥行き7間(12.7m)あり、かつては三崎16ヶ浦の檀那寺でした。本尊は阿弥陀如来像で、開基は土居城主 大久主馬範貞と彼の墓に刻銘され、文禄、慶長の頃、江源氏三崎一族の氏寺として建てられたものと思われます。
開山は、承応元年(1652年)。その後、正徳、寛政、天保年間に渡り、幾度となく改築を重ねられました。境内には、樹齢1000年を超えるといわれる大クスがあり、また、手入れの行き届いた庭園は散策できるよう、遊歩道も設置されております。

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野坂神社

野坂神社は、正野地区の佐田岬漁港のすぐそばにあり、海の神様が祀られている神社です。言い伝えによると、その昔、海が光っていて、海士が潜ってみると大蛸が金の阿弥陀像を抱えてるのをみつけ、格闘の末、これを取り上げ船に戻るなり気絶したそうです。そこで串の長 長左衛門はひとまず大島(渡島)に祀りましたが、ここは嵐や潮が満ちると参詣できないので、その後参拝しやすいように野坂祠を立て、野坂大権現として祀るようになったと伝えられています。
昔から瀬戸内一円の漁師たちが参拝に訪れるということですが、その証拠に入り口の狛犬は広島県のはえ縄漁業の人たちが大正時代に建てたもの、拝殿の階段は江戸時代(安政7年)に山口県の一本釣り漁師たちが奉納したそうです。また、「野坂」と書かれた銅板の額は、宇和島藩主五代目 伊達村候(むらとき)が奉納したとされ、とても貴重なものだそうです。

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三崎八幡神社(町指定有形文化財)

三崎八幡神社は、三崎地区の三崎港のすぐそばにあり、総氏神が祀られています。古くからの言い伝えによれば、八幡宮を石清水に勧請(分祀)された翌年に、宇佐八幡宮より勧請したということです。
貞観2年(860年)創立と思われるが、未だ明らかではありません。国府の寄進によるものであるといわれています。古代の建立による鳥居の一基が自身のために転倒し、残った一柱を使用して再建したとの言い伝えもあります。明治維新まで、大杜正八幡宮と称し、三崎浦 十五部落(三崎町 十三部落、瀬戸町田部 大久 二部落)の氏神であったが、漸次各部落に神社を創設しそれぞれの氏神となり、当社を総氏神、大氏神と称するようになったそうです。本殿の天井壁画は見事なものです。

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九軍神碑

三机湾は、ハワイの真珠湾に地形が似ていることから、海軍の極秘の訓練基地に選ばれ、挺身決死隊として選ばれた兵士たちが、ひそかに訓練に励んだゆかりの地です。その後、ハワイの真珠湾攻撃で実践に参戦し、戦死したとされる9名の兵士「九軍神」の慰霊碑が、三机湾横に整備された須賀公園の一角に昭和41年個人が求めた平和を祈念して建てられました。
慰霊碑の建立以降、毎年12月8日に地元関係者により戦没者の追悼式が行われています。「広く世界の平和を呼びかける礎石とすべく」と刻まれた碑は、人々が集い、波の音が聞こえ、心地よい風が吹く、とてもいい場所にあり、平和の大切さをあらためて感じさせてくれます。

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五輪塔(町指定有形文化財)

五輪塔とは、仏教でいう宇宙の構成要素を表したもので、上から順に、空輪、風輪、火輪、水輪、地輪が積み重なり、供養塔婆として平安後期ごろからみられます。浦安の妙楽寺の境内にある五輪塔数基があります。
ひときわ大きい花崗岩製の2基は、向かって右が寛永13年(1636年)に亡くなった近江国 長浜城主 佐々木六角承禎の曾孫で、佐々木六郎左衛門源義行(戒名:本登清覚禅定門)、左が寛文2年(1662年)に亡くなった妻 タノ(戒名:清宥妙森禅定尼)のものです。明確な記年名と戒名を記した五輪塔としては貴重な石造物です。

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千手観音像

三机地区の長養寺の観音堂 本尊-千手観音像です。長崎島原の切支丹(きりしたん)一揆鎮圧を終えた宇和島藩御物頭、梶田権兵衛が寛永16年(1639年)に安置したと伝えられています。0島原の乱に死亡した多くのキリシタンたちの霊を弔うために祀られたと伝えられている仏像は、昭和60年(1985年)には当時の旧瀬戸町の文化財に指定され、九州と四国を結んだ佐田岬半島らしい歴史の一端を今に伝えています。

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宝篋印塔(町指定有形文化財)

宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種です。当地区にある宝篋印塔は、経典供養の目的で建立されたもので、その構造は、基礎、塔身、笠、相輪からなり、相輪をのぞけば平面方形であり、笠の四隅には隅飾の突起があります。塔身には四仏(釈迦、薬師、弥陀、弥勒)が刻まれています。三机 長養寺 墓地入口にある宝篋印塔は、三机浦の平和安泰を祈願し、大乗妙典なる法華経をおさめ、享和3年(1803年)10月吉日に建立されました。

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きそん(節)(町指定無形民俗文化財)

九町地区で、毎年お盆の8月14日の夜に踊られている盆踊り。かつては23日も「孟蘭盆会(うらぼんえ)」として踊られていました。起源は天明年間(1781~1789年)以後と言われています。歌詞はすべて、七⋅七⋅七⋅五の字数で構成され、必ず最初に「出石山ほど高い山ないが~」、最後は「千秋万来思い事かのた~」の歌詞をつけます。かつては即興の唄も数多く歌われたようで、現在も多くの歌詞が伝えられています。

しゃんしゃん踊り

しゃんしゃん踊りは、伊方町大久地区に伝わる踊りです。毎年9月1日農作の日に於幾世(おきよ)大明神に奉納される踊りは、太鼓の音に合わせて静かに行われます。この踊りは、享保7年(1722年)ごろに始められたとされています。伝説によると、昔大久の浜に女性が漂着して、その後、疫病や災害が相次いで起こったそうです。人々はこの女性の祟りかもしれないということで、於幾世大明神として祀ったそうです。踊りを奉納すると、それ以来祟りは収まったといわれています。以来、この踊りは250年以上踊り伝えられてきました。明治末に一時中断した際、疫病がはやったとかでその後再開し、現在まで継承されています。しゃんしゃん踊りの「しゃんしゃん」は、歌詞の中にある「シャンシャン」からきています。